数学教師、やってます

数学教えてます。 毎日いろいろあります。

君は生き延びることができるか?

 

 

 まず、昨今のビジネス書や教育関係書のように、腕組んだりろくろまわしてる筆者の写真がどこにもないことに驚く。
 ただの引っ込み思案なのか、皆で行ったことだから一人が出ることではないという意味なのか。
 「タイトルやたら字がでかい」流れにはある。老眼気味の自分にはありがたい。
 それはさておき。

 もし、自分が大分大学教育学部附属小学校に赴任し、この本を渡されたら、どう思うか?
 「なるほどー、こういうことをしてきたのか、ふむふむ」
 ではない。
 「これが理解、賛同できなければこの学校にあなたは必要ありません」
 まさに「覚悟なきものは去れ」。あてどない流浪の旅に出る勢い。
 ちなみに、この小学校で組織を機能不全に陥らせいてた人たちがどうなったかは、本文中にさらっと一文で書かれています。

 どこもかしこも教育現場は大変ですよね。でも、どうして文科省は現在崩壊しかけの現場を積極的に救おうとしないのか、大変疑問に思っていました。平成29年文科省から出た「教員需要の減少期における教員養成・研修機能の強化に向けて*1」という報告書の中に「今は足りてないかも知れないけど、いずれ少子化が進んで教員がいらなくなるよ」という内容が記載されています。つまり今教員を増員する気はないので、現場でがんばってね、ということです。すなわち、残念ながらここから先、業務を減らさない限り現場が楽になることはないのです。
 この本は、世間に先立ち、存続か廃止というギリギリの判断にまで追い込まれ、改革しなければ生き残る道がない(と気づいた)と判断して学校改革に踏み切った大分大学教育学部附属小学校の記録です。
 「そうか、この本を読めば、その先進的な改革について学べ、うまく取り入れれば自校も改善できる」と思うのは、「野村の考え」を読んだら日本一になれると思うのと同じくらい間違っています。
 この本を読むべき理由は大きく2つ。
 1つ目は 今はまだ先進的な改革の事例であると捉えられてるが、おそらく遅かれ早かれ教育のスタンダードになるであろうという点。
 2つ目は、(こちらの方が大きい)管理職であろうとそうでなかろうと、この改革を理解して取り組む気がありますか?と覚悟を問うている点。
  県教育委員会の明確な意志と計画、歴代の校長のリーダーシップ、明確なヴィジョン、組織改編(経営会議と運営委員会 職員会議廃止) 
  行事のスクラップ、校長が替わって以降も改革が継続されるシステム、エビデンスベース(データで客観的にチェック)
  「年功序列」「前例踏襲」「年長者への忖度」の一掃、新しく入った教員への説明や意識改革、教員の意思統一などなど。
 これらのことに取り組む覚悟がありますか?と。
 どれ一つとっても大変な難易度ではありませんか?挫折されていませんか?どうやって克服して改革を進めてこられたかが記載されています。
 その中でも、教員の意思統一は最も大変で重要な事柄の一つです。同じように大阪で箕面高校を改革された日野田直彦元校長も、東京の麹町中学校を改革された工藤校長先生も反論批判ウエルカムで徹底した話し合いを行い、長い時間をかけて教員の意思統一を成し遂げたそうです。大分大学教育学部附属小学校ではもっと急進的な手段も使って教員の意思統一を成し遂げられた様子が書かれています。さらっと。
 私は残りの教員生活が十数年となった身ですが、声だけでかい既得権益のように偉そうにしている老害教員になったらもはや定年を待たずに行き場を失うことを覚悟しました。同時に、こんな改革の動きの中でまだあと十数年も教員ができることにワクワクしています。
 大げさかどうかは読んで判断してください。
 
*1)正式名称は「教員需要の減少期における教員養成・研修機能の強化に向けて-国立教員養成大学・学部、大学院、附属学校の改革に関する有識者会議報告書-」

 

 

 

 ただ、給食の取り組みは無理だわ。

 自分、昔少食で、無理やりご飯を食べさせられたトラウマから、善意で「どうぞ」と食べ物を勧められるだけでもう不快感爆発する。

 「もう一口食べてみようか」なんて言われたら絶対にそこから一口も食べなくなる。

 だから生徒に給食を食べろと言ったことがない。

 残飯減らせと言ったこともない。

 残飯0なんてとんでもない。それの何が偉いのか全くわからない。

 自分の食べられる適量を取って、それを残さず食べることを教えることが大事なんじゃないの?